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実行前夜

その実現には紆余曲折があった。当時、中央集権体制を進めるために廃藩置県の必要があることは政府内の共通認識となっていたが、その実施に向けた方策について急進的な木戸孝允と漸進的な大久保利通との対立が続いていた。また木戸が能力を重視して大隈とともに旧幕臣の郷純造や渋沢栄一らを新政府に登用したことについて、旧幕臣の腐敗こそが江戸幕府の滅亡の原因で維新のために尽力した薩長土肥の若い人材こそが政府に必要であると考える大久保には理解できなかった。

大久保は薩摩藩の藩政改革のために鹿児島にいた西郷隆盛に政府出仕を促して、新政府そのものの安定と自己の勢力の挽回を図ろうとした。折りしも山縣有朋の御親兵設置構想が浮上すると大久保は岩倉具視とともに勅使として鹿児島に入って西郷説得に成功し、御親兵設置の企画推進のための出仕同意を取り付けたのである。

ところが、出仕の際に西郷が出した意見書(「西郷吉之助意見書」)が大きな波紋を呼んだ。西郷は新政府に必要なのは士族を中心とした軍備強化と農本主義的な国家経営であり、近代工業や鉄道などの建設を推進する政府は「商人」のようであると糾弾した。それは大久保が批判対象とする旧幕臣を飛び越して一連の政策立案の中心である大隈をその最大の対象としまたこれを補佐する伊藤博文・井上馨ら、更に伊藤・井上を推挙した木戸に対する糾弾であった。
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大久保は、西郷出仕の必要性を重視してこれを受け入れた。明治4年(1871年)1月に西郷は上京し、薩摩などの維新功労者の新政府登用策の受け入れのみで一旦は了承した。しかし、西郷の新政府への不満はその富国政策とその指導にあたる大隈ら大蔵官僚にあったために木戸・大隈との対決は避けられなかった。

また、長州藩の大楽源太郎による反乱やその支持者によると言われる広沢真臣暗殺、公家の愛宕通旭・外山光輔による新政府転覆計画発覚(二卿事件)など新政府内部は更に混乱の様相を見せ始めた。

大久保は6月25日(8月11日)に政府人事の大幅改造を断行して参議を西郷と木戸の2人に限定し、自分は大蔵卿として大隈らを掣肘することとした。しかし、西郷によって推挙された大蔵大丞・安場保和が大隈弾劾の意見書を提出したために大隈やこれを支持する江藤新平・後藤象二郎らが結束してこれに対抗した。弾劾は木戸との全面衝突を望まない西郷や大久保の反対で否決されたものの新政府は西郷派と木戸派に分裂しつつあり、廃藩置県どころか政務は停滞し新政府分裂の危機に至った。

7月4日(8月19日)、山県の下に居合わせた鳥尾小弥太と野村靖(いずれも木戸派に相当する)が会話のうちにこの状況に対する危機感に駆られて山県に対して廃藩置県の即時断行を提議した。新政府を諸藩と対峙させることによって政権両派の再統一と求心力を回復させようとしたのである。これは、西郷が廃藩置県推進派の木戸と協力して新政府を支える意図があるのかどうかを確かめる目的もあった。山県は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。

翌日には2人は井上を味方に引き入れ7月6日(8月21日)、井上は木戸を、山県は西郷を説得して更に大久保や大隈にも同意を取り付けた。西郷も現状の政局を打破するために廃藩置県によって政府内の流れを変えることを望んだのである。かくして9日(8月24日)、西郷隆盛、大久保、西郷従道、大山厳、木戸、井上、山県の7名の薩長の要人間で木戸邸で密かに練られた廃藩置県案は三条実美・岩倉具視・板垣退助・大隈らの賛成を得たのである。

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2009年05月31日 14:52に投稿されたエントリーのページです。

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